理想の自分と出合う。自分探しの方法が、ここにあります。

「自己変革3つのステップ」

2013年05月30日

結果を否定しても解決しません

大阪の橋下市長が、またお騒がせな発言をしましたね。


メディアからも散々に叩かれ、
市議会でも問責決議をするという、
異例の状態になっています。


さらにまた、中国や韓国はもちろんのこと、
アメリカからも批判されるという、
孤立無援の状態です。


けれども橋下市長は、表現は改めたものの、
主張した内容は撤回しないとして、
敢然と立ち向かっています。



いやあ、凛々しい。


久しぶりに、
男の中の男というものを見た気がしました。


私はけして橋下市長を擁護する者でもなく、
また彼のシンパでもありません。


ですが、今回の件に関して言えば、
橋下市長の発言は正論であり、
彼を批判する人々の発言は筋が通っていない
と思います。



まず橋下市長は、
兵士の性欲処理が当時は必要と考えられていた
と言ったのであり、
現代もそうすべきだとは言っていません。


そして、
そういう性欲処理として女性を利用したのは、
日本だけでなく諸外国も同じだと言っていますが、
これは事実です。


それなのに批判者は、
橋下市長を女性の敵であるかのように、
人権侵害を擁護する者であるかのように、
事実をねじ曲げて断定しています。


橋下市長を、まるで悪魔であるかのように吊るし上げ、
糾弾する様は、中世の魔女狩りを彷彿とさせますね。



糾弾する側は、自分たちの中にも同じような
ドロドロしたものが潜んでいるにも関わらず、
それがないかのように主張し、
一方的に彼を責め立てます。


けれども間違いなく、ドロドロとしたものが
その糾弾する側にもあったのです。



現代史家の秦郁彦氏は、
アメリカも慰安婦を必要とした、と指摘しています。

(週刊FLASH 6月4日号より)


占領後、レイプが横行することを心配したアメリカは、
日本に対して「特殊慰安施設協会」(RAA)を
組織させました。


終戦からわずか3日後の、
1945年8月18日のことだそうです。


その日付だけ見ても、
日本が自主的に組織したものでないことが
容易に想像できるでしょう。


8月27日には東京の大森に、
最初の施設が開設されたそうです。


朝日新聞などに出た
「急告 特別女子従業員募集 衣食住支給、
前借にも応ず」という募集広告に応じて、
戦争未亡人など千数百人もの女性が集まった。

のだそうです。


当初は1日に、
女性1人で米兵15人から60人を相手にしたとか。


ピーク時には全国で7万人の女性が、
売春婦として米兵の性欲処理に貢献したのです。



もちろんそれは、
女性にとっては生活の糧を得るためでした。


ものごとはたくさんの側面がありますから、
米兵の性欲処理というのも一面なら、
女性が生活するために必要だったというのも一面です。


アメリカは日本の女性に、
自国の兵士の性欲処理という任務を押し付けたのです。



韓国も、朝鮮戦争において
「韓国軍特殊慰安婦」というものを組織した
とされています。


これは、「韓国の女性問題研究者・金貴玉氏によって
初めて明らかにされた
」のだそうです。



戦時下のレイプなど、当然のようにありました。


第二次大戦後のベトナム戦争でも、
ベトナム人の女性がレイプされたことが
報道されています。


レイプは個人の行為ですから、
国が直接関与していないとして、
国の責任は問われません。


けれども、そういうレイプを防ぐために、
あらかじめ自前の慰安所を用意することが、
レイプを黙認することよりひどいことなのでしょうか?




アメリカ軍のことを言うなら、タイのパタヤは、
いったい誰が何の目的で歓楽街にしたのか?
と尋ねてみたい。


バンコクのナナプラザは、ソイカウボーイは、
いったいどこの国の人が女性を買っているのか?
と尋ねてみたい。


現実に、そういうものがあったし、今もあるのです。




問題は、そういうことがあったという事実さえ否定し、
頬かむりして、他人のアラを指摘するという姿勢です。



たてまえを主張すれば、
自分を美しく見せることができるかもしれません。


けれども、自分の中のドロドロとしたものは、
けしてなくなりはしません。



すると、どういうことになるでしょうか?


たてまえを主張することは、
自分自身を否定することになるのです。




自分にあるものを否定したなら、
苦しくなっても当然です。


苦しくなるから、さらにウソにウソを重ね、
なおさら本当の自分を否定します。


そうやって本当のことを見えなくするから、
問題の解決からも遠のくのです。




女性の人権を守りたい。


それは私も同じです。


橋下市長も同じでしょう。


けれど私は、
だから即刻売春を禁止すべき
とは思わないのです。


これに関しては、橋下市長は違うかもしれませんが。



売買春というのは、単に結果です。


その結果を否定するだけで原因を残せば、
結果は別の形に変わるだけです。



つまり、地下に潜るだけのことです。


戦時下ならレイプが増えるだけです。


ですから、その原因を見極めるには、
結果を否定しないことが重要なのです。



「否定しない」ということは、
「それが良い」と言うことではありません。


そういう結果なのだと受け入れるだけです。


そうやって受け入れた上で、
なぜそういう結果になるのかと、
原因を考えるのです。




好き合った成人同士がセックスしたら、
何か問題があるでしょうか?


では、売買春では何が問題だと言うのでしょうか?



私はそこに強制とかごまかしなど、
自由の侵害がない限りは、
何も問題がないと考えます。


もちろん、そうじゃないと考える人もいるでしょう。


それはそれで、良いことだと思います。



いずれにしても、本音で話し合うことです。


たてまえで他者を否定しても、
それは返す刀で自分を傷つけるだけのこと。


私たちが本気で問題を解決したいなら、
強制的に結果を否定する(変える)方法ではなく、
共感しながら原因を探ることが重要だと思うのです。
 
 
 
★2013.06.02追記
従軍慰安婦問題についての事実を知りたいのであれば、こちらに簡潔に書かれています。
「NY タイムズのための「慰安婦問題」入門」(PDF)
 

★2013.06.06追記
従軍慰安婦の問題について、事実と証拠を元に、真実を明らかにしようとする動画がありました。


もしこの内容を否定したいのであれば、それが間違っているという事実を示すことが大切です。思い込みや憶測、声の大きさではなく、事実を証拠として示すことです。
 
posted by ジャンメダイ at 19:35| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月05日

被害者は存在しない

いじめ問題では、たいていは加害者側が非難されます。


たまに被害者側にも落ち度があったという
意見もありますけど。


今日のニュースでは、
被害者側の母親が学校から告訴されるという、
珍しいケースが報道されていました。



ニュースによれば、
兵庫県の私立高校に入学した女子生徒が、
5日間通学した後に不登校となり、
5月には退学したということです。


その後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と
診断されたそうですが、その原因が、
学友からのいじめだったというのです。


学校側はアンケートを取るなどして調査したものの、
いじめの実態がなかったと判断。


それを不服とした被害者側が告訴したのですが、
捜査機関も犯罪の嫌疑がないとして不起訴に。


その裁定が気に入らなかったのか、
被害者の母親は、学校と教師の実名をブログに載せて
非難したそうです。


学校側は、在校生への影響があるとして、
母親を名誉毀損で告訴することに。


すると今度は、被害者側が学校に対して
損害賠償を求めて提訴した、という経緯です。



どっちに非があるのかわかりませんが、
無益なことだと思います。


もし仮にいじめがあったとして、
裁判の結果、それが認められたとした場合、
それでいったいどうなると言うのでしょう?


加害者を処罰すれば、それで気が済むのでしょうか?


それが確定するまでの間、
ずっと加害者を憎み続けなくてはなりません。



また、もし裁判の結果、いじめがなかったとなったら、
その現実を、どう受け入れるつもりなのでしょう?


今度は、捜査機関や裁判所を恨み続けて
生きるのでしょうか?


まったく愚かなことです。



仮にいじめがあったとしても、
実際に被害を受けたのは、
登校したわずか5日間ではありませんか。


その被害から身を守るために不登校にしたなら、
それはそれで良かったではありませんか。


それなのに、その5日間の被害に執着し、
その後も被害を受け続けていることになります。


それは自分にとって、得なことなのでしょうか?




同じようにいじめられても、考え方次第で
被害者にならずに済ませることもできます。


せっかく入った高校を辞めさせられたと考えれば、
ずっとその被害意識を持つことになるでしょう。


でも、
そこを辞めたおかげで別の道に進めたと考えれば、
辞めるように仕向けられたことは被害ではなく、
恩恵と考えることもできるのです。


「あのとき、いじめられて良かった。」


そう思えるような生き方をした方が、
自分にとって得なのではないでしょうか。



学校側も同じことです。


どうしてそうやっていつまでも、
関わりあっていなくてはならないのでしょう?


在校生への影響と言いますが、
特定の誰かが悪い評判を流したからと言って、
それだけで悪影響があるのでしょうか?


それよりも、
その問題をずっと引きずっていることの方が、
問題ではないでしょうか。



そういう事件が起こったことを、
迷惑なことととか、相手が悪いと考えると、
自分が被害者になってしまいます。


けれども、それによって今の自分達を
見直す機会(チャンス)が与えられたのだと考えれば、
むしろ感謝すべきことかもしれません。



出来事は単に出来事です。


それに対して、
どのような意味でも与えることができます。



被害者になるのは、その出来事に対して、
自分は被害者だという意味を与えたからです。


被害者としての自分をそこに見るのではなく、
恵まれた者としての自分を見るなら、
感謝することも可能なのです。



この世に、
本質的に被害者という人間は存在しません。


存在するのは、自分は被害者だと考える人だけです。




たとえば交通事故で怪我を負わされたとしても、
それだけで被害者になるわけではありません。


もちろん、
保険の問題として扱うなら被害者でしょうけど。


しかし、心理的に被害者になる必要性はないのです。


仮に他の誰かが、
「あの人は被害者だ」と言ったとしても、
本人がその言葉を受け入れなかったら、
いったいどこに被害者が存在するのでしょう?



人は自由です。


被害者になりたければ被害者になるのが良いし、
なりたくなければ、ならなければ良いだけです。



そのことを知らないから、
出来事によって被害者という結果が
自動的に導かれると信じているのでしょう。


そんな人生が、本当に楽しいですか?幸せですか?


もしそうでないなら、
自分の自由を発揮するべきです。


自分がどんな存在なのかを、
出来事に決めさせるのではなく、
自分自身で決めるのです。

 
posted by ジャンメダイ at 19:49| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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