理想の自分と出合う。自分探しの方法が、ここにあります。

「自己変革3つのステップ」

2013年01月30日

それで問題が解決するのでしょうか?

大阪市立の高校で、
体罰を苦に生徒が自殺するという事件がありました。


注目される橋下市長のお膝元だけに、
教育の問題にとどまらず、
今年の入試を実施するかどうかに関して、
政治問題にまで発展しています。


そんな中で、在校生が記者会見を開き、
橋下市長に反対する声明を発表しました。


また某テレビ局の人気キャスターと
橋下市長とのバトルも話題になっていますね。



この問題に関して意見は様々でしょうけど、
ここでは入試を中止するかどうかに関して
整理してみましょう。


橋下市長など入試中止派の考えは、
一教員の問題ではなくその高校の体質の問題だから、
並大抵の対策では変化しないからだ、

という見方があるように思います。


だから校長だけでなく、教職員全員を異動させるべき
などという過激な考えも出てくるのです。


そのことについてより深く語っているのが、
板垣英憲氏です。


彼が紹介する
「内部事情に詳しいという市民活動家」の話が、
どれほど正しいかはわかりません。


ただ、その可能性を否定するだけの情報は、
私は持ち合わせていません。



でも、不思議に感じることがあります。


もしその話が本当なら、
なぜ橋下市長はそれを言わないのでしょう?


本音と建前があって、
本音を言うと何かまずいのでしょうか?


でもそうだとすると、
それこそ選挙民である大阪市民を
欺くことにならないでしょうか?



それともう1つ疑問があります。


もし体質の問題だとしたら、
入試を1回中止することで、
どれほどの効果があるのでしょうか?


しかも、市教委が提示した折衷案では、
実質的に入試を認めるもの。


その後、希望通りの授業(指導)が
受けられるかどうかという心配はあっても、
体育科予備生のような感じで入学できます。


それで的確な解決策と呼べるのでしょうか?



本来異動しなければならない教員が
いつづけたための弊害であれば、
教員の異動をさせるべきでしょう。


学校の周りにラブホや拘置所があるから
教育環境がどうのという件は、
ちょっと偏見だと感じますね。


そういうように環境のせいにするのは
楽かもしれませんけど。


もし本当にそうだと言うなら、
そもそも学校移転こそが解決策であり、
少なくとも学校廃止という結論が出ないと
おかしいでしょう。



あることないこと理由をかき集めるのは、
その人の目的にしたがって相手を説得するには、
理由が乏しいと感じているからではないでしょうか。


環境で決まるなら、
環境を変えるのが結論でなければおかしいのです。


教員で決まるなら、
教員を変えるのが結論でなければおかしいのです。


入試で決まるなら、入試をやめるのが当然です。


本当に入試で決まることなのですか?


今回の問題が、特定の教員の考え方の問題ではなく、
学校全体の体質だとするなら、
その原因に見合った対応をしなければ
効果はないと思うのです。





この問題に関して、生徒の有志が記者会見を行い、
自分たちの学校や先生を守りたいというような
発言をしました。


これに対する世論は、ヤラセじゃないかとか、
被害者の心情を顧みない自己中だという
批判や非難が多いようです。


ヤラセの可能性は否定しませんが、
私は彼らの言い分に共感する部分はあります。


それは、
愛する学校を自分たちの手で守りたいという気持ち。


そして、学校から体罰を一掃し、
早く平常に戻したいという気持ちです。


やらせてみてあげたいなと、私は思いますよ。


もちろん、彼らに任せっぱなしにするのではなく、
きちんとフォローしなければなりませんけどね。




「自己中」という批判ですが、
私はそういう気持ちは理解しますが、同調はしません。



彼らは部活の大会に出場したいだけとか、
自分の利益しか考えておらず、
自殺した仲間のことすら考えていないのだ。


それが「自己中」と判断する理由のようです。



私は、死んだ人(=犠牲者)を悼(いた)むことが、
自分の活動を自粛することに直結するとは思いません。



だって、自殺した生徒と
まったく面識のない人もいるでしょうから。



誰かが死んだら、
そのグループに所属する人は、
みな活動を自粛すべきなのでしょうか?


あるいは、非業の死を遂げた人の意志は、
他の何よりも尊重されるべきなのでしょうか?


もしそうだとすると、
体罰を行った顧問が自殺したらどうなるのでしょう?


今度は、顧問を責め続けた人やマスコミが
糾弾されるべきなのでしょうか?


それとも、それは自業自得ですか?


では、体育科に入学したかった受験生が、
入試中止のショックで自殺したら、
橋下市長が糾弾されるべきですか?


死んだ方を悼む気持ちと、
その後をどうするかという判断は、
また別だと思うのです。




東日本大震災の時も、被災していない地域で
様々なイベントが中止されました。


あれと同じ考え方なのでしょうね。


イベント中止などの自粛ムードで、
どれだけ経済が落ち込んだかわからないのに。


多くの被災した方のことを思うと、
そんな中で自分たちだけ浮かれているのは、
何かバツが悪いと思ったのでしょう。


また、こんな中でイベントをやるのかと、
開催を批判する意見もあったようで、
その批判を避ける判断だったのでしょう。



私は、被災者を悼む気持ちと、
その後の対応は別だと思います。



そうでなければ、
地球上の何処かで誰かが死んだら、
地球市民としての私たちは、
ずっと自粛すべきことになってしまいます。



そう言うと、
関係が薄いところは別だと言うかもしれませんが、
では、どのくらいなら濃くて、
どのくらいなら薄いのでしょう?


そんな絶対的な基準はありません。


「常識だよ」と言いたいかもしれませんが、
常識という絶対的な基準は存在しないのです。


それぞれの人の感性があるだけです。



ただ、
それぞれが自分の判断でイベントに参加しない、
と決断することはまったく問題ありません。


その人にとっては、
「濃い」と感じる関係だったのでしょう。


そんなイベントに参加する気分じゃないと
判断したからでしょう。


でも、全員がそうではないのですから、
イベントを中止する必要性はないと思うのです。


少なくとも、参加希望者が大勢いるイベントなら
中止すべきではないと思います。


参加者が少なくなって、
開催する意義が薄れたというなら別ですが。



今回の記者会見した生徒たちへの非難も、
同じことだと思います。


高校という限られた期間でのチャンスを、
失いたくないと思うのは人情です。


ましてや、
自殺した生徒との関係が薄いと感じているなら、
なおさら自分の機会を奪わないでと思うでしょう。


その気持を責めることで、
生徒たちを強制する必要性はないと思います。



それなのに非難するのは、
他人が自分と同じ価値観でなければ
気が済まないからでしょうね。


そういう、
他人を強制して支配しなけれ済まない気持ちが、
暴力へとつながります。



今回も、体罰か暴力かという議論もありましたが、
私はどちらも同じだと思います。


相手を強制し、支配しようとする試みです。



そう言えば、
クラウゼヴィッツは「戦争論」の中で、
こういうことを言っているそうですね。


「戦争とは、他の手段をもって継続する政治の延長」
であり、
「自国の意志を相手に強制する暴力行為」
であると。



つまり、
他国との関係で自国の意志を通そうとするとき、
相手が同意しない場合に、
使う強制力の程度に違いがあるということです。


その強制力の最たるものが、
戦争という暴力による手段なのです。


まさに私の言わんとしていることを
的確に表現していると思います。


非難も体罰も暴力も、同質のものなのです。


相手に肉体的あるいは精神的な苦痛を与えることで、
相手を意のままに動かそうとすることですから。




人の本質は自由です。


自由とは、自分で決められるということ。


誰からも強制されないということです。


ですから私は、暴力はもちろん体罰も、
そして非難することにも賛同しません。


問題の解決は強制ではなく、
自由で主体的な取り組みの中で行われるべきだと、
私は考えるのです。


posted by ジャンメダイ at 20:14| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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