理想の自分と出合う。自分探しの方法が、ここにあります。

「自己変革3つのステップ」

2013年02月23日

侍ジャパンに期待します

第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に
出場する28名の選手が選出されたという
ニュースがありましたね。


ところがその中に、
選出方法に意義を申し立てるものがありました。



28名の選手を選ぶのに、33名を招集して合宿を行い、
5人を落選させるというものだったからです。


プロ野球の一流の選手に対して、
それは失礼な扱いだと言うのです。


その記事によれば、
参加した選手からも不満の声ばかり聞かれるとのこと。


中には、
張り切ってやっても落とされたら恥をかくから、
適当にやりますと言った選手もいるとか。


その選手の声が真実かどうかはわかりませんが、
この記事を書いた記者の見方は、
かえって一流のプロの選手に恥をかかせるものだ
と感じました。



選考方法が正しいかどうかなど、
その人の見方によって変わります。


今回は監督に選ばれた山本浩二さんら首脳陣が、
この方法が良いと判断した結果なのでしょう。


ですから私は、その考え方を尊重したいと思います。



では、
こういう5人を最終的に落とすという選考方法が、
選手たちに失礼で、恥をかかせるようなものと
本当に言えるのでしょうか?


私は、そういう見方はしません。


なぜなら、人の能力はそれぞれですから、
単純に上下を比較して決められるようなものでは
ないからです。



たとえば、投手と野手というだけでも、
まったく異なるものです。


たとえば、
野球センスが非常に優れた投手がいたとしても、
投手に必要と考えられている人数枠を越えているなら、
その投手よりも野球センスが劣った野手の方を
採用するでしょう。


同じことが、
たとえば同じ外野手同士であっても起こり得ます。


ある外野手は強肩で、別の外野手は俊足でした。


それ以外の能力がほぼ同じだとした場合、
どちらが選ばれるべきでしょうか?


これは、
選手同士の能力の優劣ではなく、首脳陣の戦略、
つまり価値観が結果を左右する問題です。


また、打撃能力が共に同じ選手がいたとしても、
一方は変化球に強くて、もう一方は直球に強いなど、
その特性も異なるでしょう。


そしてさらに重要なのが、
その時点での選手の仕上がり具合という、
これまた数字にできない要素です。



このように、28名枠に選ばれた選手は優秀だが、
落とされた5人は劣っているなどと
言えるはずがないことは明らかなのに、
どうしてそう考えなければならないのでしょう?


そう考えるから、
「恥をかかされる」とか、「ひどい仕打ち」という
判断が出てくるのではないでしょうか?



考え方は人それぞれです。


固定的で絶対的な価値観があるわけではありません。


もちろん中には、
「ひどい仕打ち」だと考える人もいるでしょうし、
おそらく記事を書いた記者もそう思ったのでしょう。


けれども選手たちは、
33人に選ばれた優れた侍ではないのでしょうか?



本物の侍というのは、主から「死ね」と言われれば、
顔色一つ変えずに「わかりました」と答えるもの。


それは、命は主に預けてあるもので、
自分は忠義に生きると決めているからできることです。


生きるか死ぬかという重要なことでさえ、
それよりもっと重要だと考える忠義のために、
完全に捨て去ることができる人たちを、
本物の侍と呼ぶのです。



選ばれた28名と落とされた5名とで、
何がどう違うと言うのでしょう?


たまたま選ばれただけだし、
たまたま選ばれなかっただけです。


顔色一つ変えずに
「わかりました」と言って引き受け、
それぞれの責務を果たすだけではありませんか。


それでこそ、本物の侍であり、
侍ジャパンにふさわしいプロの選手だと思うのです。




「恥をかかされた」とか言って首脳陣を批判したり、
「ひどい仕打ち」などと言って同情することは、
それこそ彼らを侮辱するものだと私は思います。



彼らは、世界の強豪と戦うために選ばれた、
プロ中のプロです。


落とされた5人も、選ばれた28名に故障者が出れば、
すぐに代わりに補充されるべき人たちです。


仮に戦う場が与えられないとしても、
それぞれの場でベストを尽くす。


それができる本物の侍として選ばれた選手たちです。


ですから私は、彼らの活躍に期待すると同時に、
その素晴らしさを讃えたいと思うのです。


「がんばれ、侍ジャパンの侍たち!」
 

ラベル:WBC 野球 選手 落選
posted by ジャンメダイ at 20:33| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

可愛くて可愛くて仕方がない

インターネットでニュースなどを見ていたら、
気になる記事が目に止まりました。


雑誌「女性自身」の記事で、
「脳性まひの娘と生きた50年「可愛くてたまらない」と母」
と題した記事でした。

 

岡山県の旭川児童院で暮らす佐藤直美さんは、
2歳で脳性まひと診断されてから、
今年で52歳になるそうです。


通常は長くは生きられない病気なのです。


直美さんも診断されたとき、
20歳まで生きられないと医者から言われたのだとか。


母親は、その宣告を受けたとき、
一緒に死ぬことを考えたそうです。


しかし、
直美さんに感情があることがわかったとき、
自分の勝手で死なせてはいけないと思ったのだとか。


その後、母親は
楽しそうに生きている障害児がいることを知り、
「直美も直美らしく、幸せになったらいいんや。」
と思ったそうです。



それから50年もの間、
娘を支えて生きてきた母親ですが、
頑張れた理由はシンプルなものだったとか。

 

「私はね、直美が可愛くて可愛くて、
仕方がないんですよ。」


 

もう51歳になった娘を見て、
心から「可愛い」と言う母親。


そこにはただ、愛しか存在していません。


可愛い我が子の姿を見れば、疲れも吹き飛ぶし、
どんな辛いことでも乗り越えていける。


だから、娘のお陰で頑張ってこれたと、
母親は我が子に感謝するのです。

 

障害があるから、幸せになれないわけじゃない。


ましてや貧乏だとか、学歴がないとか、
彼女がいないなどという理由で、
幸せになれないわけじゃない。

 

ただ愛すればいい。


愛すれば、
感謝の気持しか湧いてこないはずです。


幸せになるなと言われても、
幸せを感じずにはいられないのです。

 

 
この話を読みながら、私も泣いてしまいました。


そして、
あの「泣けるタイのCM」を思い出したのです。

 

あの短いCMの中にも、様々な人生が詰まっています。


そして、たっぷりの愛情があるのです。


だから自然と泣けてくる。


あなたも、たくさん泣いてください。


きっとそこに、
愛があることがわかるでしょうから。
 
posted by ジャンメダイ at 19:00| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月08日

体罰の背後に真犯人がいる

体罰の問題は、日本のお家芸でもある柔道の、
トップクラスにまで飛び火しました。


全日本女子柔道の選手15名が、全柔連の体質の問題を
JOC(日本オリンピック委員会)に告発したのです。


その前に全柔連に訴えた選手がいたのですが、
その訴えがまったく無視されたため、
組織の外に救いを求めたのだとか。


体罰をしたとされる監督とコーチなどが、
引責辞任しました。


しかし、単に監督らの辞任だけで
幕引きしようとする全柔連に対し、
訴えた選手たちは、組織の改革を迫っています。



その後のニュースでわかったのですが、
「先生方(コーチ)の慰労会」と称する打ち上げに、
選手たちが強制的に参加させられていたそうです。


その酒席では、お酌をして回ることも求められたとか。


上下関係が厳しく、断ることができなかったようです。



こういうのを見てみると、体罰を行ったこととか、
それが暴力と呼べるかどうかなどは、
本質的な問題ではないこと思うようになりました。


本質的な問題は、
自由がなく強制される人間関係にある、と思うのです。




酒席でお酌をさせられることなどは、
おそらく多くの組織であるでしょう。


私もそれを経験してきました。


嫌だと思う気持ちもありましたが、
好感を持っている先輩や上司に対しては
喜んでお酌して周りました。


そして後輩に対しても、
同じことをするように求めました。


それが組織というものだと思い、
組織力を高める方法だと信じて。



けれども、今考えると、
そういう上下関係というのが、
最大の問題だと思うのです。


上が命じたことに対して、
下は絶対的に服従しなければならない。


そういう上下関係が原因で、
体罰の問題が起こっていると思うからです。




絶対服従と言うからには、
「服従しなければどうなるのか?」
ということが語られなければなりません。


全柔連では、
それがオリンピック代表の選考権限でした。


全柔連に従わなければ、オリンピックに出られない。


どんなに実力があり、大会で優勝したとしても、
選ばれないことがあるのです。


これは、選手たちへの
強烈なプレッシャーだったでしょう。


ですから、暴力をふるわれても、
黙って耐えるしかなかったのです。



また、
暴力は絶対的に服従させるための武器でもあり、
服従しない場合の制裁でもありました。


「死ね!」と言って叩くのが、
愛情であるはずがありません。


自分の命令に従わないことに腹を立てて、
制裁しただけです。


その「従わないこと」ということは、
必ずしも意図的な反抗を意味しません。


自分が指導した通りに選手ができないことも、
自分の命令に背いたことになるのです。



ですから、制裁が必要だと感じたのでしょう。



なぜ制裁が必要だと感じるのでしょうか?


選手はその指導通りにやりたかったけれど、
未熟で、あるいは体力の限界で、
できなかっただけかもしれません。


それなのに、
どうして制裁する必要性があったのでしょうか?



それは、その命令がその人自身だったからです。


命令が守られないということは、
その人自身が否定されたことを意味します。



いえ、本当はそうではないのですが、
その人がそう感じたのです。


自分が否定されると不安になります。


そんなことは受入れられない。


だって、自分は上なのですから。


自分は完全に受入れられて当然で、
そうならないのは相手が悪い。


だから相手に制裁を加えて、
自分に対する忠誠心を見せることを強要し、
安心を得ようとしたのです。



暴力を振るったから悪いとだけ考えていたら、
この問題は解決しません。


これからも「つい手を上げてしまった」という人が
後を絶たないでしょう。


問題の本質は、
暴力を振るったかどうかではありません。


絶対服従の上下関係を維持させるかどうかです。


その関係を維持させている間は、
精神的に未熟な指導者が存在するでしょう。



子育ても同じですね。


親だというだけで、子育ての責任を押し付けられます。


その人が子育てするのにふさわしいだけ、
精神的に成熟しているかどうかは考慮されません。



今は指導者も、その分野で優秀だったというだけで、
指導方法を学ぶこともなく、指導者にさせられます。


精神的に未熟な人には選手の指導をさせない。


そういうコンセンサスができるまでは、
この問題があとを引きずることと思います。



相撲界のいじめや体罰も、同じ問題です。


学校の部活での体罰やいじめも、同じ問題です。


絶対服従すべき他人など、どこにも存在しない。


たとえそれが親子であっても、師弟であっても。


そこに気づくまでは、
この問題は解決しないと思うのです。
 
posted by ジャンメダイ at 18:59| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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