理想の自分と出合う。自分探しの方法が、ここにあります。

「自己変革3つのステップ」

2012年12月27日

ほしいと思うから得られないのです

「恋人が欲しいなあ。」


そんなことを、なんど切実に考えたでしょうか。


私にできる限りのあらゆる方法を考え、
試してみたと思います。


私にできないのは、
・背が高くてかっこいい二枚目になること
・運動神経抜群のスポーツマンになること
・口達者な三枚目として笑わせること
・何でも買ってあげる金持ちになること
・超一流大学を出たエリートになること

くらいでしょうか。


まあ、一般的に女性が憧れる対象とは、
ほど遠かったということです。(爆)



ただ、自慢できることもありました。


それは優しさです。


優しさなら負けないと思っていました。


相手を気遣うことにかけては天下一品。


そう自負していたのです。



しかし、その気遣いが災いします。


「私みたいなモテない人間が誘ったら、
相手が迷惑するんじゃないだろうか?」


そんな思いから、
積極的にデートに誘うことさえできませんでした。


自分から接点を持とうとしないのですから、
恋人ができなくても当然かもしれませんね。




そんな私が変わったのは、「諦めた」からです。


「別にもう、恋人なんかいなくてもいい。
一生、独りで暮らしてもかまわない。」


そうやって開き直ったとき、恋人ができました。


「いや無理に、
恋人でいてくれなくてもいいんだよ。」


相手に何も望まなくなったとき、
自分らしさを出せるようになりました。


変に相手に気遣って、
もじもじおどおどする必要性がなくなったのです。


すると、
そういう私を魅力的だと、相手が言うのです。



不思議でしたね。


あれだけ「欲しいー!」と願い続けたときは、
まったくできなかった恋人。


それが「もう要らない」と思った途端、
何の苦労もなくできたのです。




でも考えてみれば、
これこそまさに宇宙の法則通りでした。


宇宙の法則は、
「あなたが思ったことが実現する」という、
いわゆる「引き寄せの法則」です。



潜在意識の働きと言う人もいますが、
同じことです。


イエスキリストでさえ、
願ったことは叶うと言っています。


からし種一粒ほどの信仰があれば、
山を動かすことも可能だと。



「いやいやちょっと待って!
願っても叶わなかったんでしょう?」



そう問いたくなりますよね?


実は、願い方が違ってたのです。



「恋人がほしい」と願ったということは、
私には別の「想い」があったということなのです。


その別の「想い」こそが私の真実の思いであり、
強烈な思いだったのです。


それは、「恋人がいない」という欠乏感です。



私にとって、とても重要な「恋人という存在」。


それがいないのですから、私には重大事です。


その欠乏感が宇宙に発信され続けたのです。


「恋人がいない」「恋人がいない」「恋人がいない」


宇宙は応えました。


「わかった。あなたは「恋人がいない」のだ。」


こうして、
「恋人がいない」という現実を引き寄せていたのです。



その後、
「もう恋人なんていなくていい」と
考えるようになりました。


これは、
「恋人がいない」という欠乏感が緩和したのです。


そこで注意しなければならないのは、
私は「恋人がほしくない」と
思ったわけではないのです。


恋人がいたら嬉しいけど、
別にいなくてもかまわない。


つまり恋人に対する必要性が緩和し、
いれば好ましいという気持ちになったのです。




それによって、
「恋人がいない」という強烈な「想い」は、
宇宙に届かなくなりました。


その一方で、
「恋人がいる楽しさ」だけが宇宙に送られたのです。


だから宇宙はそれに応えて、
「恋人がいて楽しい」という現実を創ったのです。




聞いていてバカバカしいですか?


2000年も昔から、
繰り返し繰り返し言われてきた話ですが、
バカバカしいですか?


でも、どんなにこれをバカバカしく思っても、
誰もこの法則から外れることはできません。


宇宙の法則は、誰であろうと別け隔てなく、
この法則通りに創造を繰り返すのです。



問題は、
この法則を使うかどうかではありません。


法則は、使いたくなくても使わざるを得ないし、
現に使い続けているのですから。


そうではなく、意識して、意図的に使うのか、
それとも無意識に偶発的に使うのか、
という違いがあるだけです。




この法則をバカバカしいと考える人は、
常に後者でした。


ですから人生は、上手く行ったり行かなかったり、
他人や環境に翻弄されてきました。


本当は自分が創った(引き寄せた)現実なのに、
その現実に振り回され、
奴隷になることを自ら選択してきたのです。



「なぜ私の人生は上手くいかないんだー!?」


そう思う人は多いですが、
その原因が自分にあるのだと考える人は少ない。


せいぜい、
「自分が悪いんです」と自己卑下して、
本当の責任から逃れようとするだけです。



本当に自分の人生に責任を持つなら、
人生の主人になることです。



まちがいなく、あなたが
あなたの人生の主人なのですから。



現実は、
あなたが創った(引き寄せた)結果にすぎません。



それがどんな現実であっても、
あなたが様々な意識レベルで想ったことが
現実化したのです。


それを受け入れ、
結果である現実を自分の責任として引き受けることで、
やっとあなたは人生の主人として振る舞えるのです。




もしあなたが、
必要なものはなんでも創り出せる
(引き寄せられる)としたら、
その対象に執着するでしょうか?


執着などしませんよね?


だとしたら、
あなたが人生の主人になるということは、
執着がなくなることになります。



「恋人がいなくてもかまわない。
(なぜなら、いつでも創り出せるのだから。)」



「恋人」の代わりに、「健康」でも、「お金」でも、
なんでもかまいません。


あなたが欲しいと思うものは、
本当はあなたにとって必要ではない。



そのことが体に染み込むくらいに理解できたとき、
あなたは人生の主人として生き、
自由を感じながら幸せに生きることでしょう。




これが私からの、クリスマス・プレゼントです。

posted by ジャンメダイ at 21:35| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月18日

子育てが楽になれば多くの問題が解決します

昔は日本でも、
「女に教育は必要ない」と言われたものです。


男の子は大事に育てて大学まで行かせても、
女の子はせいぜい短大まで。


だから、女子短大がとても多いのです。


アフガニスタンとかバングラディシュなどでは、
イスラム教の影響もあって、
女性の教育が進まない現状がありますが、
日本もかつてはそうだったのです。



現在の日本は、
男女の平等がかなり進んだと思います。


いえ、私はそう思っていたのです。


しかし、指摘されてみると、
まだまだ進んでないところがたくさんありますね。


たとえば、出産を理由とした不平等です。



都会の待機児童問題もありますが、
子どもを生むと働きづらいという環境があります。


そのために少子化が進んでいるし、
それによって高齢化が急速に進行しています。


また、特に母子家庭では貧困問題があります。


子育てしながらでは、フルタイムの仕事や、
責任のあるポジションでの仕事がさせてもらえず、
パートタイムで働くことが多いからです。


このように経済的に自立できないことは、
女性が離婚を決断することを阻害します。


離婚されないことを良いことに、
夫の暴力を甘受させられる女性も多く、
DV(家庭内暴力)を助長することにもなっています。



このような現実がありますが、
逆にもし、女性が子どもを産み育てることが
何の不安もない社会であるなら、
それらの問題も解決するのではないでしょうか?




母子家庭でも生活が成り立つ安心感があれば、
女性は離婚に躊躇(ちゅうちょ)しないでしょう。


そうであれば、
不必要に夫の暴力を甘受することもありません。


安心して子育てができるとわかれば、
子どもを産む意欲も出てくるでしょうから、
少子化にも歯止めがかかり、
高齢化のスピードも遅くなります。



ただしこれは、子育てする女性の経済支援を
してあげることではありません。


そうではなく、経済的な負担をすることなく、
子育てを助け合う社会になれば良いだけなのです。



子どもは国の宝と言うならば、
子どもを育てるのは国の責任ではないでしょうか?


国の責任とは、すなわち私たち全員の責任。


つまりそれは私の責任であり、
あなたの責任だと言うことです。



子どもを産むことは、
残念ながら女性にしかできません。


だからそれは、女性にお願いするしかないのです。


けれども、
子どもを育てることは男でも協力できます。


もちろん女性でも、お年寄りでも協力できます。


そうやって少しずつ社会が協力し合うなら、
子育てに多大な負担がかかることは
なくなるはずなのです。




どうしてそうした、
わずかな協力ができないのでしょうか?


それは、子どもを所有物と考えているからです。


「私の子ども」という言葉には、
所有概念が含まれます。


「子どもは天からの授かりもの」とも言いますが、
こういう意識が薄れているのでしょうね。


授かったものであれば、
立派に育てて、いずれ天にお返しする
という意識でなければなりません。


それを自分のものだと思うから、
自分の子に平気で虐待をするし、
他人の子には無関心になります。


また、他人が協力しようとしても、
それを拒否したりします。


自分のものに触ってほしくないからです。



そういう所有概念を捨て、
コミュニティーで子育てをするのだと考えれば、
ずっと楽になると思うのです。




待機児童の問題は、
安く保育してくれるところがないのが問題なのです。


なぜ安くできないかというと、
乳幼児の保育には手間がかかるからです。


しかも、過大にリスクを回避しようとするため、
1人の保育士が担当する乳幼児の数が、
厳しい基準で制限されているからです。



考えてもみてください。


昔の母親は、乳幼児を何人も抱えながら、
家事もこなしました。


大家族の食事の支度や後片付け、
掃除洗濯を手作業でこなしたのです。


ですから、
多数の乳幼児を少数の保育士で預かることが
不可能なわけではありません。


しかし、それで何か事故が起こると、
すぐに責任追及が始まるため、
国は責任を負うことを怖れて厳しい基準を作ります。




ちょうど原発の問題と似たようなものですね。


リスクを100%回避しようとすれば、
そのコストは莫大になるのは当然のことです。



中には「少しくらいのリスクを背負ってもいいよ」と
言う人もいるはずなのに、
一律で基準を定めようとします。


それは基準を定める国だけの問題ではなく、
私たちの考え方がそうだからです。


少しでも外れた人がいれば常識外れだと批判し、
そういう人がいるから社会が悪くなるのだと非難し、
自分のコピーのような人たちばかりになれば良いと
本気で願うのです。


私たちがそう考えるから、
私たちの社会はこういう社会になっているのです。




保育の問題も、結局はそこに行き着きます。


どうして保育園は、
基準以上の広さがなければダメなのですか?


どうして保育園には、
基準以上の保育士がいなければダメなのですか?


基準以下でも良いという人がいるなら、
それでも認めれば良いではありませんか?



たしかに、
安さを優先して安全性を下げれば、
リスクは上昇します。


保育中の事故が発生することもあるでしょう。


でも、そのリスクを受け入れるしか、
コストを下げる方法はないのです。



リスクを負うのは100%嫌だと言う人は、
それに見合ったコストを支払えば良いのです。


安全性、快適性を追求すればコストが掛かる。


けれども、もしそれらの基準を下げるなら、
もっと安くできる選択肢がある。


そういう自由があることが、
暮らしやすい社会ではないのでしょうか?




今の日本は、あまりに画一的過ぎる気がします。


食中毒で数人死んだからと、
国民全員にある食べ物を禁止しなければ気が済まない。


本来は、きちんと処理すれば安全に食べられるし、
体力がある人なら、食あたりしても死なないのに。


何でもかんでも厳しく基準を決め、
それにしたがうものしか存在を許しません。


そんな窮屈さから、人びとはストレスを抱え
心の病気が増えています。



もっと楽に生きたらいいのに。



人間は本来、自由なのです。


基本的な人権などと言うまでもなく、
もともと自由なのです。


その自由を制限しなければと思い込み、
規則や基準でがんじがらめにするから、
喜びを感じられなくなっているのです。




幸せの前提は自由です。


思い切って、基準を見直すことです。


タブーを排除することです。


人が持つ本来の自由を取り戻すことが、
あなたの幸せにつながるのです。

posted by ジャンメダイ at 21:20| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月11日

いったい何を守りたいのでしょうか?

タイにも、
日本人向けの無料情報誌というものがあります。


その中にDACOという情報誌がありますが、
そこに興味深い記事が載っていました。

ttp://www.daco.co.th/
(※上記URLの先頭にhを補ってご利用ください。)

「アジア・レポート ラオス不発弾問題」

(DACO 2012/12/5 Number350 p.57)


カンボジアの地雷は有名ですが、なんとラオスにも
そういう問題があるというのです。



ことの起こりはベトナム戦争。


北ベトナム軍は、
南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を目指し、
ホーチミン・ルートと呼ばれる補給路を作りながら
進軍していました。


ベトナムの地図を見ていただければわかるように、
逆くの字に折れたベトナムを南下するには、
国内を通るより直線的に下った方が近い。


そのためホーチミン・ルートは、そのほとんどが
国外、つまりラオスを通ることになったのです。


補給線を絶つのは戦いの常道。


アメリカ軍はホーチミン・ルート遮断のため、
ラオス国内に大量のクラスター爆弾を投下しました。



クラスター爆弾とは、投下後に複数の小爆弾に分裂し、
広範囲の人や兵器を損傷させることができるもの。


ただ、あまりに大量の不発弾を残すことになるため、
人道的でないとされて、
使用禁止の動きが世界で広まっています。



そのクラスター爆弾などの不発弾が、
ラオスに8000万発あると言われているのです。


2000年から2011年にかけて、ラオス国内では
不発弾で死亡した人は約2600人にもなるとか。



このラオスの不発弾問題に取り組んでいる
日本のNPOがあります。


「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」です。

ttp://jmas-ngo.jp/ja/
(※上記URLの先頭にhを補ってご利用ください。)


カンボジアの地雷処理から始まり、
現在ではラオス、アフガニスタンなどにも
その支援を広げているそうです。


メンバーは、元自衛隊の爆弾のプロたちが中心で、
その知識と技術を生かして支援しています。


「オヤジたちの国際貢献」という本も
発行しているそうです。




そのJMASが、ラオスの支援のために2012年から、
カンボジアの地雷処理で活躍した特殊なブルドーザーに
改良加えた車両を導入しようとしました。


しかし、その試みは性能不足という現実を前に、
失敗したのだそうです。


現状以上の車両改造をしようとすると、
日本の武器輸出規制に抵触してしまうからだとか。




私は、ここまで記事を読んで、
本当に情けなくなりました。


私たちの法律は、
いったい誰のためにあるのでしょう?


その法律によって、
何を守ろうとしているのでしょうか?




ラオスの人たちを1日でも早く
安全な状態にしてあげたい。


その願いを実現することは、
そんなに危険なことなのでしょうか?



何かが間違っているのです。


どこかがおかしいのです。



ラオス人は日本人ではないから、
助けなくてもいいのでしょうか?


それが、
私たちという存在なのでしょうか?



あなたは、それで良いと思いますか?



問われているのは常に、
「私とは何ものか?」
ということです。


人生に起こるあらゆる出来事は、
常にその選択を迫ります。


常に、毎分、毎秒、
それによって私たちは自分を表現し、
自分自身を体験するのです。



私は、
「こんなことは私らしくない」と表明します。


もし私が車両改造を請け負う会社の社長なら、
たとえ罪に問われても行動したい。


間違っているのは、機能しない法律の方だ。


そう考えるからです。



「そんなことをして、他国に強力な武器を作られたら、
日本が危なくなるじゃないか!?」


そう言って非難する人もいるでしょう。


けれども思うのです。


武器で脅し合う関係を、いったいいつまで
続けるつもりですか?


そんな方法で、
本当に安全が守れると信じているのですか?


世界各国の善なる心を信頼し、
互いの信頼関係の中に平和の礎を築くと
私たちは誓ったのではなかったのでしょうか?


日本は、その魁(さきがけ)となると
決意したのではなかったのでしょうか?



ラオスでは、
特殊車両による不発弾除去ができないため、
危険とわかっていても手作業でやらなくては
ならないのだそうです。


鉄くずを売って生計を立てている住民は、
危険とわかっていても、
不発弾を手に入れようとします。


危険を知らない子どもたちは、
興味本位で不発弾に触れてしまいます。


それがわかっているのに、
「他国のことだから関係ないよ」とは
私には言えないし、言いたくはない。


なぜなら、それは私らしくないから。



「でも、個人の力じゃ何もできないよ。」


たしかに、そうかもしれない。


何の役にも立たないかもしれない。


けれども、奇跡が起こる可能性はあります。



私たちが信念を変えれば。



私たちが信念を変えれば、
一瞬にして世界中の貧困問題を解決し、飢餓を解消し、
安全で安心な生活を提供できる可能性がある。


私は、その可能性まで否定しません。


だから、まず自分から始めるのです。



私はラオスの見知らぬ人であっても、
私自身のことのように考えます。


それが私だと思うから、それが私の信念だから、
今の私にできる限りのことをやります。



あなたは、どういう自分を選びますか?



人生で重要なのは、着ることでも、食べることでも、
生き延びることでもありません。


それよりも、どんな自分であるかを選択することが、
何にも増して重要なのです。


自分自身を失ってしまったら、
世界中を手に入れても、何にもならないからです。



※JMASへのカードでの寄付は、
GiveOne(ギブワン)などのサイトからできます。

ttp://www.giveone.net/cp/pg/TopPage.aspx
(※上記URLの先頭にhを補ってご利用ください。)
 
posted by ジャンメダイ at 19:17| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月06日

失敗という出来事は存在しません

失敗を怖れて何もできない。


そんな経験はありませんか?


私は、何度もあります。



私は完全主義者でした。


そう言うと聞こえがいいですが、
要は失敗を怖れていたのです。



失敗したら恥ずかしい。


失敗したら自分の価値がなくなってしまう。


それが怖ろしくて、不安で、
失敗しそうなことに挑戦しなかったのです。


挑戦しないのですから、失敗はしません。


やるのは、
失敗しないと思っていることだけですから、
その意味でも失敗はしません。


これが完全主義者の正体です。




でも、今は違う考え方をしています。


世の中に、
失敗という出来事は存在しないと思うのです。




それを失敗だと考える人はいても、
失敗という出来事は存在しません。


つまり失敗とは出来事ではなく、
単に出来事に対する意味付けであり、
価値判断なのです。




たとえば、大学受験に落ちたとしましょう。


出来事は、合格しなかったということです。


これを失敗だと決めるのは、自分の心です。




大学受験に受かることを目標として努力したのだから、
その結果が落第なら失敗ではないか。


そう思われるかもしれませんね。


けれども私は、
それも1つの見方に過ぎないと思うのです。



たしかに以前の目標はそうだったけれど、
あなたはもう目標を立てた時点の人間ではありません。


時間がたてば人は変わります。


変わることが可能だし、変わることが当然なのです。


落第したとき、それでもまだ目標を
過ぎ去った受験に置きたいのでしょうか?



落第は結果ですから、
いまさら変えることは不可能です。


けれども、
自分の見方はいつでも変えることができます。




今の目標は何ですか?


再受験ですか?それとも、他の道に進むことですか?


再受験を新たな目標とし、
今回の落第という経験を生かすなら、
落第という出来事は失敗でしょうか?


それは単に、
成功への途上と言えるのではないでしょうか?



また、進路を変更するという選択肢もあります。


そうして新たな目標ができたとき、
それは落第という経験がもたらした恩恵と
考えることも可能でしょう。


落第したから進路を変えることができた。


もしその新たな進路で、
自分がやりたいことと出会ったとしたら、
落第は失敗でしょうか?




出来事には何の意味もありません。


意味を与えるのは、あなた自身です。


他人がそれにどんな意味を与えるかに関係なく、
あなたはあなたの意味を与えるのです。



それが、自分として生きるということなのです。


posted by ジャンメダイ at 22:54| Comment(0) | メルマガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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